三年前のブログを再掲します。
「ユートピアの原理」では、「ユートピアに向けた個人の行動原理」の第二段階として「探究・学習・伝道」が説かれています。
では、それに先立つ第一段階は何かというと、それが「自己変革の意欲とエネルギーを持つこと」です。
この第一段階が曖昧だと思わぬ影響が出てしまうんです。
そもそも「自己変革のため」という目的が定まらない精進ってありえますか?
気をつけないと御法話や経典の学習の理由が「おもしろそう」になってしまいやすいんです。
仏の意図から離れ、興味本位での探究・学習になってしまうかもしれないんです。
仏の御意図を「探究」するのではなく、面白そうなものの「探求」になってしまうかも。
実は、私も今年になってから「自己変革意欲が探究・学習の前提」であることに気がついたばかりでした。
(そもそも「探究と探求の区別も曖昧だったし・・・)
「主なる神を讃える歌」では、「神の心から離れたら ただの漂流船」という歌詞があります。
でも、「自己変革」って「自分を仏に近づける」ことですよね。
こんな大事な「大前提」に気がつかずに信者をやっていた私は漂流してたってことかも(汗)